昭和43年9月5日夜の御理解
これはあると思うのです。見んでもやはりそうです。大広前を中心にしてそれぞれの持ち場と又立場によってなされることも違う訳ですが。必ずしも同じことばっかりしておったんではしとれば、おかげということではない。言うならば、私の思う通りにみんなが動くというだけがおかげではない。人間心から少しははずれたいや、沢山離れた、いわばことをしたり言うたりしてする人もあってもいいのです。それをはみでるということが私の信心であって、だから、手が出たり、足が出たりしておれば、それだけ手が出ただけ大きくなれるんだ。足が出たら、出ただけ、大きくなるのですから、ね。そのためにやはり、今年の私の信心のスローガンであるところのいよいよ大きくいよいよ豊かにと言うことの信心が目指さなければならんと言うことですね。家族でもそうです。家内が自分言うとおり子供も自分の言うとおり動かしたい。親として中心であれば、一応思います。けれども、それについて来てくれればいい。それはもうこれくらいありがたいことはない。けれども、言うてもついて来てくれんなら、それを包含するほか仕方がない。それによって私どもは、そこに****親の言うことをきかん。ですから、同時に****自分達の持ち場と言うもの、立場と言うものが信心で本気でそれがなされて行くと言うことをただ今茂雄さんのお届けしておりましたら。
今朝の御祈念で頂いておられるのが私の控えの応接台の上にお*を出しているところを頂かれた。次にはトマトを頂かれた。これはまあ久富茂雄さんの持ち場であろう。立場だと私は思うのです。これは確かにそうだと思うのです。けれどもだから、そのことに本気でやはり大げさですけれど、気にかけるとか、真心いっぱいにそこに尽くすとか、どうか言うことによって私は茂雄さんの持ち場がいわば、明らかにされる。あの人の立場がそこにある。茂雄さんが私の側でお茶をついでもらえばそれでいいであろう。外の何を御用してもらうよりもそれが一番になると思うのです。それがどういう事かと言うと、ここで言う中心であるところの私に非常に元気を与えて下さることになるということです。私は今日はそれを本当に痛感したんですけれど、もうこういうところがあいよかけよになっていかなければいけないなあと私は思ったんです。なんちゅうか私を中心にして行ってこれておるというようなことが強いですけれどもあながしそうではないのです。たとえば、私と家内の場合であっても家内が私のいよいよ信心にせいが出る。御用にせいが出されるために例えば、家内がその伴奏を入れて来れると言うこと、家内がそこんところの立場をもって御用をしてこれるといいましょうか。だから、そうして、これという訳なんです。ところが家内は家内の立場がある訳なんです。朝から、忙しゅう飲事場の方でばたばたやっておる。そうじゃあのうても私は忙しいんだ。あなたの事まで手が届かないと言うのももっともだと思うんです。けれども、ここで家内に言うならば、曲げてそこんところは一つおかげ頂いてくれ、豊かに大きくなってくれといいたいと又私もその代わりあんたのいわば、願いあい頼みあいの場に立たせてもらうときが必ずある。そう言うふうにですね、例えば私、今日午後から私4時の御祈念がありますから4時までひかえにおったんです。途中私がテレビを見ようとちょっと立ち上がろうとしたら、神様から頂くことがですね。こんな事頂くんですよね。ここにおることはね、信心で御祈念しておると同じことだと神様はおっしゃるんです。ここに控えに控えておることは例えばテレビ室の方に行ったら、もうそうじゃないわけです。こりゃ、私はうかつに動かれんなあ、だいたいそう言う気持ちはもっておったんです。私もだいたい12時まで休ませてもらったら、4時まで控えにおって4時から先をまあ御祈念が終わったら、お風呂やら、それから、私の時間と頂いておるというふうに思っておったんですけれど、ついこの頃くずれてしまってお昼の御用頂いたら、そこに今日自由に自分で使っておった。ここにおることもありゃあテレビ室におることもあるということがあった。ところがこれではやはり御祈念にはならない。それからというて私は午前中、ひげをあたってもらっておったから、御けっかいの御用がおろそかになっておりましたから、御けっかいにつこうて思っておったら、御けっかいには、御けっかいには又修行生の先生がおるから、その場を侵してもならないということ。先日、私は、この控えに控えておるが一番良いことになる。言うならば、私は裏の方が自分の住宅であるならば、勤めに出てきておるということになる。だから、あそこを外れることは勤めをおろそかにすることになる。そこで私は、朝の3時半に出社、会社であるなら、出社してきてそして夕方4時半に帰らしてもらう。帰ったら、家内がそこに暖かく迎えて来れて「お帰りなさい、こんにちは、お疲れさまでしたでしょう。」というような私は雰囲気を作ってくれたら、私が言えに帰ったときどれくらい気分が楽になっただろうかと思う。だから、これは私が家内に求めるなかなか家内がそれがそれをいうてくれん。聞いてくれんから、私が今日の御理解でいうならば、聞いてくれんなら、私が、もう一丁大きくなる。私も一日一生懸命働いて自分の家に帰らして頂いて又家内の機嫌をとることも信心にならなければならん。けれども、出来ることならば、出来ることならば私がくださったところで、やあお帰りなさい、お疲れさまでしたでしょうというなら、御神**ご苦労様でした。という気持ちでまあ自分の住まいの方で受けてくれるなら、私は大変そこで楽になるだろう。そこになら、家内が助かる場もそこから頂けるのです、ということになるのですよね。たとえば、私が10時に終わります。終わって控えで着物を着替えさせて頂いたら、茂雄さんが毎晩見えてから、お茶をしてくださる。それは、こりゃ、もう一日中の最後の締めくくりのいこいなんです。なにか知らんけど、たしかにあーきつかったというてから、ばたっと倒れたいと言うときにあのそう言う奉仕を受けると言うことはもう本当に又今朝頂いておられるおまえをあげられるトマトのお知らせを頂いたら、元気が出るとおっしゃる。しかも何時力がつくしかわからんようにしてあのつく元気な心という物がトマトのお知らせです。又、茂雄さんが頂いている御用とは、私がそういう私に元気な心を与えて下さるための御用をしておられるのですから、せっかく頂かれるならば、その事にその持ち場、立場をはっきりしていく、しかもそこに真心込めてなされなければならないことになる。急にへらして頂いたら、家内がそこにはとにかく私がとにかく全然大広前からくだらないならば、朝3時半から出てそしてすみかに4時半まで帰って来るようなもんですから、御神**お疲れさまでした。と言う気持ちであそこに受け入れる場と言うものがあったら、私はどんなにその気分がよいかわからない。けれども、茂雄さんだって家内だってこだわる。
それをしてくださらんかというて心がこもうなっちゃあならん、そんなら、それで私はもう一丁豊かにならなあいかん。家内がそう言う補助してくれなくても、私はもう一つ大きくそこから思うようにならない手が出る足が出るをしておるならば、それをもう一丁大きく私が包含していくような私にならせて頂くことによって大きくなれるのであり、豊かになれるのである。お互いのなかなか人間関係、とくに人間関係の事ですけれども、親子の仲、夫婦の仲、先生と信者の仲というものが、それぞれの私は持ち場、立場と言うものが明らかにされている。その持ち場を大事に真心をもってなされていると言うことから、私はおかげを頂けていくように思う。
自分の思うようにならすることがおかげじゃあない。けれども自分の思うようにならんでもいい。それは自分でも知らない。気が付かないところに私のいよいよ、おかげを頂いて行く場をその人は進めておってくれるのだと言うような気持ちで大きくそれを包含して行く以外ない。これは私が中心でお話させていただきました。けれども、めいめいの家庭でもしかりと思うのです。子供が言うことをきかん家内が暖かくないといったようなことで愚痴不足を行ったんでは豊かに大きくなれない。けれども、これは、なら家内なら家内の立場としてです。主人がいよいよ働きが出来ることの為に私は労をねぎらわしてもらうというか、女性としての豊かな優しい心で使えておる。それをたとえば、態度やら、言葉でその労をとることが出来るならば、もうその心さえなれば、言うならば、見やすいことではないだろうかと思う。私、今日4時半に下がってから、何時も3時に牛乳を飲むのに、誰ももってくれんから、牛乳を頂いた。それをなら、牛乳をぽつんと牛乳だけを出されるよりもそれがなんとか牛乳が加工してあるとか、それにまあちょっとした心を使こうてくれることによって私の心はありがたいものを感じるだろうと思うのです。ただ牛乳をコップにざくざくついでから、ぽつんと目の前におかれるだけ。ないならないでいい。必ず、何か小さいパンとかビスケットとか出て来る。今日はすみません、パンがないから、今日ビスケットがないからと一言言えば、それでいいのです。それをぽんと目の前に出されただけでは、もうとりつく暇もない。かというて、家内がその場でです。あとから、私は考えて見て私はその時にこれつぐだけなら、牛乳瓶だけでよか。コップにつかんでよか牛乳だけそのままだしてくれればええだというふうに申しましたけれどもなら、家内は家内で丁度4時半頃は夕方自分で一人でゴダゴダやっていた訳なんです。ですから、ここに機にたとえば、あいよかけよでの働きが、もう主人が会社から、帰る時間だと例えば、会社に勤めている主人をもう帰って来る時間を待ったような気持ちがですね。私はね、女は大事じゃなかろうか。いうなら、主人が帰って来るときは身仕舞も一つしておこう。帰って見えたら、すぐおかえんなさいといえる様にしておこう。帰ってきたら、お茶の一つも入れられるようにしておこう。その心遣いが私は女には必要ではなかろうかというてそれをきかんなら、こりゃあもうしかたがない。そんなら、それをもう一丁上回って男の方がここでは私がです。大きくなるほかない。家内も忙しいんだから、まだ下がる前帰る道々にいうなら、家内がどういう風にうけてもそれを豊かに受けていこうぞともう腹を立てたら、ばからしいというようにつくっていかなければならない、と言うことにもなるのです。そういうことによって大きくなれる。豊かになれる。けれども、又、それがですね。今、言うように私が思う痒い所に手が届くようになら、家内なら家内、子供達が覚えてこれたら、あってくれたら、することはそれは今日茂雄さんが頂いておられるようにいよいよそれは私に次の御用の頂ける事のために元気を送って下さるような働きにもなるのです。ですから、どちらにしてもどちらにころんでも、それを信心で頂かして頂かねばならないのです。けれども、これはお互い持ち場、立場ことからいうてもですね。壮年部は壮年部の持ち場、立場がそれぞれ違うのです。だから、そこんところの立場をはっきりしてそのところを本当に承る。しかも、真心で承っていこうというような信心が出来るときに合楽のたちゆきがあるというふうに思うですね。まあ一つどうぞ、自分の思うようにならない事が多いのですけれど、それによって今日の私じゃあないですけれど、不平不足を感じたそれだけ損です。風呂にでも入って考えるとすぐわかることです。ばからしい話じゃなあ、10分でも、15分でももやもやしただけが損なんです。だから、もう勝手な方に行く前に私は心を作って行けばよし家内がどういうふうな態度に出てもそれを豊かに大きく受けられる自分であろうということ同時に今日私の自分の持ち場、立場というものがどういう大変な大事な事か私の、ここで持ち場、それはこの御けっかい同時にここを下がらして頂いても4時のひけまでは、私はあそこにあるというだけでもね、ここでみんなの事を祈っておることを神様が受けて下さるのなら、これは明日からは本気に精進しなければいけないなあ、あの時間が何にもならないから、テレーとあそこで待っておるだけでもつまらんから、少しでも楽な方をとろうとするとテレビ室に行ったりね。、はだかんなったりしておる訳なんですけれどもこりゃあ今日私これを頂いてから、明日からはどうでも一つお昼が済んだら、やはり、夜の御祈念まではあそこでやっぱり御祈念しておるつもりであそこであそこで結局奉仕させてもらう。これが私の持ち場である同じに立場から言うあそこが持ち場になるのであるという様なことを感じました。どうぞ。